宗派 臨済宗方広寺派中本寺
当寺は、応永11年(西暦1404年)大本山 方広寺三世臥雲空谷和尚の法嗣・大信正及和尚が開創され、615年を経ています。
本山である方広寺は南北朝時代、後醍醐天皇の皇子宗良親王の御弟にあたる無文元選禅師によって開創された禅苑で、創建にあたっては井伊氏の流れを汲む豪族奥山朝藤が寺域を寄進、伽藍の造営にあたりました。そうしたことから、方広寺は南朝方の寺の色彩を持つと知られ、洞雲寺はその本山直末寺院として末寺30余か寺を有しています。
本山である方広寺は南北朝時代、後醍醐天皇の皇子宗良親王の御弟にあたる無文元選禅師によって開創された禅苑で、創建にあたっては井伊氏の流れを汲む豪族奥山朝藤が寺域を寄進、伽藍の造営にあたりました。そうしたことから、方広寺は南朝方の寺の色彩を持つと知られ、洞雲寺はその本山直末寺院として末寺30余か寺を有しています。
寺宝
山門に掲げられている「天龍山」の山号額は後桃園天皇の勅額であり、12世全扶和尚が文政13年に京都御室御所にて拝領したもの。
本堂正面に「洞雲護国禅寺」と刻まれた金文字の編額は、済仁親王筆のものであり、京都の御額司上田安兵衛作。
御桃園院猶子、伏見宮兵部二品貞敬親王より下賜された「蟋綷聲寒初過雨色浅末経霜」と「長月の九月ごとにふむ菊の花の甲斐なく老にけるかな」の掛け軸を保管しております。
本堂正面に「洞雲護国禅寺」と刻まれた金文字の編額は、済仁親王筆のものであり、京都の御額司上田安兵衛作。
御桃園院猶子、伏見宮兵部二品貞敬親王より下賜された「蟋綷聲寒初過雨色浅末経霜」と「長月の九月ごとにふむ菊の花の甲斐なく老にけるかな」の掛け軸を保管しております。
建物
本堂 元和元年9月全焼し、三世実山和尚が元禄4年(1691年)に再建されてより300年以上が経ち、老朽化のため2018年に解体。
令和3年11月に新しい本堂が完成致しました。
庫裡 嘉永6年(1853年)再々建
山門 天保3年(1832年)再建
観音堂 寛永3年(1706年)再建
鐘楼 奥山方広寺旧鐘楼を移築再建。大鐘:口径79cm(2尺6寸)、目方563kg(150貫)
令和3年11月に新しい本堂が完成致しました。
庫裡 嘉永6年(1853年)再々建
山門 天保3年(1832年)再建
観音堂 寛永3年(1706年)再建
鐘楼 奥山方広寺旧鐘楼を移築再建。大鐘:口径79cm(2尺6寸)、目方563kg(150貫)
観音堂 縁結び観音 (千手観音)
遠州観音霊場33ヶ所の内7番 和賛に「月志路み 山陽の洞に雲 者礼て 飛可里毛利く留 木の葉まにまに」 またこちらの観音様は、徳川家康公が浜松に在城されている時に羅病され、本尊の薬師如来様と共に当病平癒を祈願されました。すると、たちどころに全快され、その後、良い家臣達との縁にも恵まれ、天下の大事をなすことが出来たと伝えられている霊験あらたかな観音様であります。ゆえに、昔から良き人との出会い(良縁)を結ぶ事が出来るため、「縁結び観音」様(千手観音)と言われております。
いぼとり地蔵 歯痛止め地蔵
古来より、いぼ治癒・歯痛止めに、ご利益があるとされて地元の方々に知られております
井伊共保公之碑
永禄年間、今川氏の為に井伊谷城落城し井伊一族四方に難を逃る、中に五郎兵衛忠道あり、洞雲寺に身を寄せ井島の姓を称し、天正の初期、神宮寺を創立す、爾来400余年を経、祖恩の広大なることを感謝す、茲に井島一族先祖の遺志を継ぐため、千年前の祖、井伊共保公の碑を建て墓地を改修して、篤く祀り子孫の寄るべきを期すなり。
井伊共保公と井嶋一族の関連抜粋(諸説あり)「参考文献:井嶋儀一氏著(神ケ谷と井嶋一族)」
井嶋五郎兵衛の祖 井伊共保(ともやす)公とは
藤原鎌足の子孫 藤原共資(トモスケ)に子供なく、寛弘7年(1006年前)龍譚寺の僧が取り上げげて養育した子は文武ともにすぐれた者であった為、共資に見込まれて藤原共保となり井伊谷城主となった。その後、姓を藤原から井伊と変え井伊家の祖となった。現在、直系子孫は彦根城博物館長の39代 井伊直岳氏。
井伊共保公と井嶋一族の関連抜粋(諸説あり)「参考文献:井嶋儀一氏著(神ケ谷と井嶋一族)」
井嶋五郎兵衛の祖 井伊共保(ともやす)公とは
藤原鎌足の子孫 藤原共資(トモスケ)に子供なく、寛弘7年(1006年前)龍譚寺の僧が取り上げげて養育した子は文武ともにすぐれた者であった為、共資に見込まれて藤原共保となり井伊谷城主となった。その後、姓を藤原から井伊と変え井伊家の祖となった。現在、直系子孫は彦根城博物館長の39代 井伊直岳氏。
井嶋一族の祖 井嶋五郎兵衛とは
永禄3年(西暦1560年456年前)今川義元は桶狭間にて織田軍と合戦し大敗、その後戦死する。その折、井伊谷城21代当主井伊直盛 (直虎の父)は義元軍として戦ったが討ち死にした。義元の子、今川氏真は桶狭間での大敗は「井伊直盛の反逆]だとする家臣小野道好の諜略進言を信じてしまい22代当主井伊直親(ナオチカ)を捕え処刑する。
氏真はその後も今後の祟りを恐れ井伊一族をすべて根絶やしにしようとした。井伊一族はこの難を逃れるため、次々と地方へ姿を隠した。直親の遠縁にあたる宗良親王(後醍醐天皇の子孫。井伊家11代当主の井伊道政の娘(重子姫)の夫。)の子孫の松千代なる者が龍潭寺を経て洞雲寺へと逃れてきた。
松千代は時機到来の折は再び井伊谷に帰り再興を狙うが叶わず神ヶ谷での土着を決意し井伊谷の「井」をとって姓を井嶋、名を五郎兵衛忠道と改め家紋は井伊家と同じ橘紋とする。井嶋五郎兵衛は慶長17年(西暦1612年404年前。直虎死去のち30年後。)死去する。五郎兵衛には長男の長右衛門、二男の次郎兵衛、三男は三郎兵衛という3人の子があり家督は次郎兵衛が相続したがそれぞれ3人の末裔は現在まで井嶋姓として脈々引き継がれている。
以後、井嶋一族の檀家寺として賀久留神社の南に神宮寺を開山したが明治43年の小学校建設のため廃寺となり祖先の位牌等は洞雲寺に移された。その後、「井伊共保公」及び「井嶋五郎兵衛忠道」の石碑、一族の墓石等は昭和17年に洞雲寺の一角に独立して井嶋一族により建立された。これより毎年、桜満開の4月に一族は供養祭を行い、先人の遺志を引き継ぎ祀っている。
年代系列
西暦 | 和暦 | 何年前 | 主な出来事 |
---|---|---|---|
1010 | 寛弘7年 | 1006 | 井伊共保誕生といわれる。寛治7年84歳にて死去 |
1385 | 元中2年 | 631 | 宗良親王死去 |
1404 | 応永11年 | 612 | 洞雲寺開山(大信正乃禅師) |
1560 | 永禄3年 | 456 | 桶狭間の戦い、今川義元、井伊直盛討ち死 |
1573 | 元亀3年 | 443 | 三方ケ原の戦い |
1575 | 天正3年 | 441 | 長篠の戦い |
1582 | 天正10年 | 434 | 井伊直虎死去、本能寺の変 |
1600 | 慶長5年 | 416 | 関ヶ原の戦い |
1612 | 慶長17年 | 404 | 井嶋五郎兵衛死去 |
1618 | 元和3年 | 398 | 神宮寺開山(班山乙由和尚) |
1910 | 明治43年 | 106 | 神宮寺の廃寺、洞雲寺へ移る |
1941 | 昭和16年 | 75 | 真珠湾攻撃、日米開戦 |
1942 | 昭和17年 | 74 | 共保公、五郎兵衛の石碑、一族墓石建立 |